ジンジャーブレッドマンクッキーと意思を持った文字たち
少し前に、琵琶湖の近くにある成安造形大学の「共食展-EatingTogether-」を観に行った。
https://artcenter.seian.ac.jp/exhibition/7263/
(この文は展示のレビューではありません。アートの展示をきっかけに考えた色んなことを書き留めたもので、話は飛びます。)
まずタイトルとは裏腹に人と食べものの気配のしないゴーストタウンのようなキャンパスに惹かれた。じわじわ来る寂しさに押されながら奥まで進むと、芝生の向こうに平らな湖がみえた。
1000個のおやつの形をした陶器の作品が一番気に入った。ゴーストタウンもそうだけど、生命を失った跡の形骸のようなものに惹かれるのかもしれない。それが同じように少しずつ違いながら沢山あったり連なっていること。
食べものというものは生きるためのものだけど、でも生きものは常に死を食べて生きてる。食べるということは常に自分以外の生きものを犠牲にして成り立っていて、食べる時に感じる罪悪感はそれかもしれない。植物より動物、自分に近いものを食べる時に人は特に罪悪感を感じる。
そう「共食」というと共食いのことも連想して、英語ではカニバリズムといって概念は恐ろしいのに言葉の響きはすごく浮かれていて逆に怖さが引き立つ。自分に近いものを食べると病気になりやすいと言うけど、もし自分を食べるとどうなってしまうんだろうか?
西岸良平のSF漫画で、大根の葉の根元を土に埋めるとまた大根が生えてくるように、死んだ人の身体の一部を土に埋めて培養して蘇らせるという話があったのを思い出した。そうなると他に安部公房の小説で自分の膝にカイワレが生えてくる話(食べていたかどうかは?)や、村上春樹の小説で図書館の地下で脳味噌をちゅうちゅう吸われるという話や、現実にもあるのは人が猿の脳味噌を食べたり猫が死んだ飼い主を食べたり…そんなことが思い浮かんでくる。
手のひらに人と書いて食べる人、夢を食べる獏など、食べるということの呪術性に思いを馳せると尽きない。
また最近食べたもので、レモンの形を模したレモンケーキや栗の形を模した栗まんじゅうなど素材の形を模倣するお菓子について、わざわざ労力をかけて調理前の形態を模するという所に人間の食に対する豊かで複雑な心持ちや少し狂気さえ感じる。
共食展の映像作品、永田康祐さん「Translation Zone」では分子調理による「ローストしないローストビーフや揚げない唐揚げ」など様々な民族の料理を一元的に理解するという調理法のことが取り上げられていた。
こういうことと並行して未来のディストピアに描かれるようなブロック食などが発展していくのかもしれない。代替食という言葉もあるように、身体を作る食べものがどのようにも翻訳できるというように感じ(そういえば「翻訳こんにゃく」というドラえもんのひみつ道具があったな)「もうオーガニックではいられない、私たちは身体ごとオンラインに浮いている」と思った。どこでも展開できる平らなディスプレイの向こうにいる実体のない自分の方が実体であるかのように、半分オンライン上で生活し肉体は半分なくなっている。半身が透明の幽霊のように。
コロナ禍、飲食店が強制的に閉じられ肉を失った幽霊の私たちはゴーストタウンを彷徨うことすらろくにできず個室でのオンライン生活を強いられた。飲食店で暮らしたいとさえ思っていた私はそういう世界を受け入れることができず、暇にまかせて世界の終わりみたいな世界を実際にひたすら歩いて彷徨っていた。なんとか開いている飲食店を見つけて入ると、人と人との間に透明な仕切りが設けられ、そこに見えない菌やウイルスがたくさん付着しているように見えた。声の媒体である空気が遮断され、話はできない。
見えない菌を恐れて空気を吸い込むことさえも自粛していたような気がする。整体に行ったら呼吸が浅いということで「空気はタダなんですからいくらでも思い切り吸ってください」と言われた。私も星のカービィみたいに思い切り空気を吸ってあの悩みのなさそうな顔でふわふわ浮かんで生きられたらいいなと思い、浮けるくらい軽くなろうとして、コロナ禍で使わない物や無理な習慣や人間関係のしがらみも捨てたけど、食べることと話すことは楽しみでやめられない。
やはり人間だから、身体のあるうちは今やっているカフェを通して言葉を食べて自分の肉声を取り戻していきたいと思う。でもそれが全部良いとも思わない。たぶん私たちは半分幽霊でいるのが心地良い。体を離れた世界では常にみんなと繋がってるし、アバターのようにはままならないオーガニックな自分と向き合わないで済む。
透明な仕切りで隔てられた、有限の世界と幽玄の世界とをああでもないこうでもないと往来しながら、いつしか往生する。(※往生…諦めること、極楽浄土に生まれ変わること)というのが今の道理かもしれない。そう何でもきっと半分諦めた方が軽くなって生きやすい。we are フェーディング and フェーディング and someday 大往生ね。
今年ももうフェードアウトの時期が近づいて来たので、沢山の小さなジンジャーブレッドマンクッキーをみんなで分けて食べたい。ジンジャーブレッドマンクッキーは欧米でクリスマスシーズンによく食べられる人の姿をしたクッキーで、人が人を食べるという構図がナチュラルにファンシーに成立するお菓子で、ブレッド(パン)なのかクッキーなのか混乱を招く名前だけど呪文のようで語呂が良いので何度でも言いたくなる。かわいいジンジャーブレッドマンクッキーにも人身御供だったり疫病除けなど呪いと祈りのエピソードが込められているようで。食べることにはいつも死に繋がる呪いと生きていくための祈りが込められている。だから美しく盛り付けてテーブルを囲んで、目を閉じて手を合わせて声を合わせて、ありがとうとごめんなさいを込めて、いただきます。こんな儀式を毎日やってる、まだ半分オーガニックな世界で。
現在併設ギャラリーで展示中の作品と関連が深そうな、中島敦の短編「文字禍(もじか)」は、意思を持った文字の精霊に主人公が呪い殺されるというお話。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/622_14497.html
人の姿をしたジンジャーブレッドマンクッキーのように、カフェみずうみで作っている言葉のクッキーがそれぞれ意思を持った文字だったら…と想像した。(以前「衣(ころも)」という文字のクッキーを作ったら人が踊っているような形に見えたことがあって。)
コロナ禍を経て、新たなる人類の試練は溢れすぎて自分たちではもう制御できない「言葉」なのかもしれない。全ての言葉ー人間の意味をAI(人工知能)に乗っ取られそうな危機「文字禍」へ。「意味を諦めるための新しい言葉が必要になるのかもしれない。それは言葉でもないかもしれない。」そんなことを思った。
その総量は宇宙よりも膨大だとされるあらゆる文の組み合わせが記された書物を所蔵するという「バベルの図書館」は、もう完成している。
2024年12月14日〜2025年1月5日
「バベルの図書館 | La Biblioteca」福本浩子さん個展
https://monadecontemporary.art-phil.com/?p=874
この展示期間カフェみずうみでは、ジンジャー入り顔付きの言葉のクッキーと温かい飲みものをご用意しています。展示とともにぜひ、お楽しみください。