たこ焼きの舟 on, わたしの記憶 in 池

SNSで日記上げる宣言をしたら、早速「できごと」がやってきた。

桜は満開、月曜の昼間だけど円山公園では沢山の人が花見を楽しんでいる。
私は池のほとりでたこ焼きの舟を池に浮かべるような感じで写真を撮って、最初のたこ焼きをひとつ食べたら、スマホがいわゆる「池ポチャ」した。こんな漫画みたいなことが起こるなんて。

落ちた直後はどうしたら良いかわからず、しばらく何事もなかったかのように池を眺めていた。桜の花びらがひらひら舞い落ちてくる…
(これは後から思うと(記憶の媒体を失って)記憶喪失になった人のようで、滑稽な風景。)
スマホは身体とその記憶を物理的に分離している。

でも、せっかく今さっき撮った「たこ焼きの舟on池」をはじめ、これまで数年間に撮った沢山の写真とかメモとか、そう記憶を湖の底ならまだしも、今はまだ池の底に沈めておくことなんてできない。(確かに最近池のことが気になっててこうして来てるんだけど。)
公園管理を探してタモとかを借りようとも思ったが、そんなの探してる間に私の記憶がどんどん水に溶けて流れていってしまうのではないか…

意を決して、まるでゲリラパフォーマンスのようにその場で靴と靴下を脱いで腕をまくり池に入って、手探りでスマホ(私の記憶)を探してすぐ見つけた。
水中に約30秒、水深30cm程度。苔で水中が見えないから、入ってみないとどれだけの深さなのか分からなかったけど、池も浅かったし傷も浅かった。こうしていつも通り文字を入力して、ネットに繋がり投稿もできる。
ただまだ通話ができるのかわからない。声が通るのか(どうしたら)水の中で声は通るのか?

スマホを身体に例えると、脳みそはスマホの記憶媒体でマイク入力は耳で出力は声で。肌身離さず持っているのは薄く軽くなっていく将来の私たちの身体かもしれなくて…
いえいえ、記憶はみんなの共有サーバーひとつでいいのかもしれないけど、私たちは動物のように植物のようにオーガニックな身体を持って生き続ける。まだそれぞれ個別の記憶媒体で考え続ける。

残りのたこ焼きを食べ終わるまでが、上演です。
足の指をくるっと内に巻くと犬の足みたいに見えた。水中と陸上の間に小屋を建てて暮らす、ウナギイヌのことを思う。

映え写真を撮ろうとしてたら足をすくわれる、過度な承認欲求は身をほろぼす、というのは今回のひとつ分かりやすい教訓でした。(しかし、懲りてない。)
ネタを取るつもりが自ら身体を張ってネタになる。でも最近演劇のワークショップに参加してるからか、このことをきっかけにちょっとしたゲリラパフォーマンス風に昇華できたのと、色んな考えを巡らせることができたのは良かった。

池や湖の落としものを拾い集めて「金の斧」みたいな「これはあなたの落としものですか?」みたいな企画をやってみたいな。

足を乾かしながらこの出来事を書きつけていると、横にある桜の木の下で、着物を着た若い2人組がシュピピピピピと100連写くらいずつ写真を撮り合いだした。私のスマホは何かやるたびいちいち警告してくるくらいパンパンなのに…ゆとり、ゆとりがほしい。

記憶が溜まって重くなったから落ちたのか。イメージの量、文字の量、時間、膨らむ媒体。やはり通話ができるのか心配だ。水の中で話はできるのか?私は静かな湖のように、落ち着く場所を求める声をいつも聴いている。それらは質量を持とうとする(現実に繋がろうとする?)声となり跳ねる魚のように水を求めてやってくる。

声…コイ、踊り・語り…みみうず