自分と違うものに触れると溢れてくる言葉(自分) 

2024年9月27日~ 10月3日、併設ギャラリー:monade contemporary | 単子現代にて、上本竜平/AAPA「あるとかき(概)を読む」展示とパフォーマンスが開かれました。
https://monadecontemporary.art-phil.com/?p=737

ーある書かれた言葉の「とかき(概)」を読む場をひらく、展示とパフォーマンス。コンタクト・インプロビゼーションのワークショップで「からだに触れながら相手と話す」ことを行った際、手渡された「言葉が書かれたもの」が、今回の創作の始まりになっていますー

*「とかき(概)」:米をますに入れ、盛り上がった米をならして外にあふれ出させる際に使う短い棒。転じて、おおむね。おもむき。

企画:上本竜平(AAPA https://www.aapa.jp
パフォーマンス: 上本竜平、佐藤鈴奈

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AAPA上本さんの展示インストール後、みずうみに入ると、ギャラリーの壁には何もなくて椅子とテーブルがセットされ、いつもよりカフェみたいになっていた。
上本さんは色んな場所に日常の延長として仮設の舞台を作ってこられて、この展示はKYOTO EXPERIMENTS(京都国際舞台芸術祭)のフリンジ企画としてエントリーしている。みずうみもカフェおよび地下シアターになれたようで嬉しい。
とはいえこれはKYOTO EXPERIMENTSが始まる直前までの展示であり、AAPA(Away At Performing Arts)というユニット名や、シナリオのト書きを思わせる展示タイトルがとても状況にマッチしているなと思った。

展示のメインイメージの「とかき」について聞いてみると、枡(ます)に米が貯まっていって、溢れたものを外に出す棒が「とかき=言葉」で、外に出た米は自分の中にあったものだと言う。人から「言葉が書かれたもの」を受け取り、自分も何か書きたくなったけれど、自分の中にあるものを言葉にすることに詰まったことが今回の展示とパフォーマンスのきっかけになっているというような話だった。

展示物としては、言葉と写真が組み合わされた冊子と、ある人から手渡された「書き出し新聞」を何号かまとめたものと、色んな短い言葉が書かれた小さな封筒に入った手紙の束。この手紙を来た人に手渡してほしいとのこと。書いていて気づいたけど、言葉を手渡しするから触れることと触れながら言葉を言うパフォーマンスに繋がっていたのか。

パフォーマンスは上本さんと佐藤鈴奈さんのふたりで出演し、コンタクト・インプロビゼーション(触れ合いながら即興で動く)をベースに、ふたりの対話から上本さんが書いた文章を佐藤さんが読む声を合わせて、1時間弱ほぼ止まらずに触れ合いながら動き続ける。

それぞれの体の動きは文字になる前の言葉のようだった。また言葉になる前の思考のぬかるみの中をあがいているようにも見えた。みずうみの底で米を洗っている様子をイメージした。身体の動きと共に米ぬかなのか細かい砂なのかが煙る。
またそれぞれの身体が移り変わる言葉であり、それが交わって色んな言葉が紡ぎ出されるようにも見えた。

相手が誰かがいるから言葉になろうとする。他人は邪魔でもありでも言葉になるために不可欠なもので、もし切り離したように見えても、ぬかるみの奥の記憶の湖底では繋がっている。

コンタクト・インプロビゼーションについて、佐藤さんは触れ合っている相手との間で起こるリアルなことに興味があると言った。
パフォーマンスを見ているだけでも、体の触感と同時に声から言葉の触感も感じる。私たちは他人と常に未知のものを交換していて、同じものでも昨日とは違うように、情報整理されたデジタルなものよりもリアルの途方もない情報からその時その時で自分が感じるものを感じ取る。そして何か反応を返す。それは相手にとって未知なものである。だけど全ての他人は自分の可能性だということを思い出す。
ここでは、こういう場合はこうするべきだこう言うべきだという上辺の縛りは取り払ってある。本当の対話というのかそういう場を実現させているのは、人がこれからそれぞれ自分らしく生きていくために、重要なことではないかと思った。

パフォーマンスのあと急遽開催されたトークで、もしコンタクト・インプロビゼーションのように人々が触れ合うということが日常的にある社会になれば、もっと豊かに変わるだろうという話になった。触れることの暴力性とか他人の怖さとか沢山のハードルがあるけれど。それは言葉も同じような側面がある。言葉は断定することで相手を傷つけてしまったり言った方にも責任が生じる、特に不特定多数に拡散できる言葉は誰がどう受け取るかわからない怖さがある。
何にせよ触れ合うことは、お互いへの信頼がないと成り立たない。それにはまず対話することで信頼を育てる。
大事なのは共感することではなく、自分との違いを感じること、それを受け入れること。また自分とは違うものを確認することで自分を確認するのだと思う。他人との関わりがないと、自分のことはわからない。他人と触れ合うことでどれだけの自分と出会うことができるだろう?

またひと通り話した後、心地良い沈黙を共有できることは、コミュニケーションの極みかなと思う。
「円座」というものがあって、そこに集まった人(初めて会う人がほとんど)でテーマも決めずに自由に対話をするのだけど、場が極まってくると泣き出す人がいたり、誰も話さなくなり10分以上の沈黙が訪れることがある。対話の場で肯定された沈黙はとても心地が良い。深く自分に潜れるような、広くその場に世界に溶け込めそうな気がする。
人は表面的な会話だけでなく、またふたりだけの濃密な関係だけでなく、もっと色々なコミュニケーションの可能性を持っているし、それを開いて日常にもっと持ち込めたら良いなと思う。

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最終日のパフォーマンス後のお茶会で、「ことばを食べるかんじクッキー」を食べてもらった。
「回」「流」「衣」など、お米を洗うから連想したのか洗濯機の中のような、風が吹くと向きや形が変わるような流動的な感じの漢字のクッキーになった。
「衣(ころも)」は踊ってる人のようなかたち。

皆さんのお話のなかで、表現のワークショップで受けた感覚をその時だけでなく日常に持ち込むにはどうしたらいいか?という疑問があり、ある人が「言葉を持ち歩く」のが良いのではと言った。
そう展示の手紙の中には、ひとりでできる台詞のないト書き?演技の指示?のようなものが書いてあって。(例えば「あるものにもたれかかって、遠くを見つめながら重力を感じて」というような)
舞台の上でなくてもそれぞれの日常の中で演劇が始まっていたりして、それらが知らないうちに交わったり、また演劇と現実が溶け合っていく世界を想像したら、楽しくなった。

私がこのパフォーマンスで思い出したのは(漫画で知ったのだけど)カフカの短編で、二人の人が不安定なでこぼこした「地面」をよろよろしながらお互いに支え合いながらどこかを目指すという描写が続く話で、結局その「地面」というのは人間の体(表面)だったというもの。思考のぬかるみと言ったけど、人とは相手とは自分とは何かを知ろうとして、不器用に絡まり合うような感じがして。

その夜遅く、湖の底みたいな静かな場所でふたりの自分が撮れた。
近くにいるのにお互いを双眼鏡で見てるよう。自分を隠してるようでもあるし、自分とは違う自分を見ようとしてるようにも見える。
みずうみの窓の外にときどき現れる黒猫たちのことを思い出す。一匹だと思っていたら、EXILEの振り付けみたいに影みたいに後ろからもう一匹同じような黒猫が現れたのは驚いた。みずうみをやっていると水面に映るという要素を汲んでか、対になって現れるものが多い気がする。

また最近聞いた話で、コミケなど2次創作の現場で、推しキャラへの愛が強すぎて推しキャラを分裂させ、人格を分けて対話したり交わったりする創作が稀にあるという。(例えばエレンならカップリング「エレエレ」というふうに)
言葉(ソフト)的には人工知能が、身体(ハード)的にはクローン技術があるので、そのうち自分と自分との対話や触れ合いというのは実現できるかもしれない。そういえば「自分と結婚する」、そのためにソロ結婚式を挙げるという人もいるというようなニュースを見たことがある。
自分と自分の対話が実現すると、どうなっていくんだろうか。ふたつに分かれたもうひとりの自分はもう自分ではない。

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上本さんが帰る時に、最後に腕で触れ合ってみてもらうと、すぐに体が温かくなった。
話すより情報量が何十倍もあるようで、人の向こうに未知の宇宙が広がってるみたいだった。自分と全然違う。同時に一方で他人は自分の可能性である。人の体だけでなく物に触れたりその環境にいることで、その物や環境に同化できそうな気がすることがある。いま体験している世界はそのまま自分の可能性である。

同じ場所で、過去を上映するということに興味があり、展示が終わるまでパフォーマンスの記録映像を上映することを提案した。画面を少し地面に沈ませてほぼ等身大で再生すると、地面から人が出てくるような、空間の奥に空間が続いてるような、絵のように映像を置いているような、不思議な風景になった。作品だけでなく、過去の同じ場所での日常風景の上映もしてみたい。それは最近よく目にするキーワード「幽霊」(流行ってる?)という概念とも繋がっていきそうな気がする。

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この展示が終わって、ギャラリーに来た人と「眠り」についての話をしたからか、夢の中で眠りながらパフォーマンスをする夢を見た。
ステージの上で5人の演者がいて私はそのひとりだったけど、(どうしよう踊ったりできない…)不安で仕方ない私の耳元で「ここで眠ってていいよ」と演者のひとりが言ってくれた。私は目を閉じて床に伏し、これでいいのかなと思いながらそこでうねうねしていた。目を閉じていたけど、観客の様子が見えた。
夢には自分を演じる自分とその世界を俯瞰する自分がいる。また現実には目を閉じて眠っている自分がいる。
目を閉じると自分の暗がり(シアター)の中で記憶の上映が始まる。その光はどこから来てるんだろう?

そういえば昔ある授業の中で小さな寸劇をする機会があって、事故の現場で、倒れてる人、助ける人、助けを呼ぶ人、みたいな配役を交代しながら演じた。その時は意識を失って倒れてるという設定だったけど、「意識不明の役、上手いね」と言われ、死体役をするのって楽しいんじゃない?と思った。その場では一番のキーパーソンでありながら、自分とは切り離されて勝手に展開する世界に、その視覚の沈黙と外界の喧騒のギャップに、そこにいるのにいない自分に、授業を抜け出して美味しいものを食べてるような、背徳感と恍惚感を覚えた。

身体がそこにあるのに意識がそこにないという状態に不思議と安堵感を覚える。眠っている人の見守りをしたいと思ったり、目を閉じてる人が表紙の冊子を作ったこともある。

ずっと目を閉じて生きていけたらいいと、ときどき思う。目を閉じながら好きな人や信頼する人と触れ合ったり言葉を交わしていたいと思う。
どうしようもない自分を見たくなくて、目が悪くてもそのままぼんやりした世界で生きている。
言葉ひとつ、傷や歪みひとつでネガティブな指摘をされることもある、こんな厳しい怖い世界では自分みたいな傷つきやすくて弱い人間はそのままでは生きられないから、感覚を閉じて間隔を開けて、生きている。
弱くても人の生きていける社会を求めるから、優しいと思われるが人の傷みをわかるわけではない、人の傷みを見ないことで受け入れてる。
それでもお互いに少し傷つきながらも近づいて、不完全な自分と他人を合わせてみると、その違いを感じるとやっと言葉が出てくる自分がみえる。


いつもよりたくさん書いていたら、ご飯が美味しい季節になっていた。みずうみで洗ったお米の粒をもくもくとかき集めて、言葉になる前の混沌の炊き込みご飯を作ろう。自分を守るそして開く、言葉の種を今日もからだに植える。
 
 
 

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