原始感覚記 2024

2024年8月30日〜9月1日、原始感覚美術祭に出展作家として参加させていただきました。
山に囲まれた湖のほとりで毎年開催されるアートのお祭りで、今年のテーマは「水のうつほ」。

ー15年目の開催となる信濃の国 原始感覚美術祭は、「水のうつほ」をテーマに開催します。山にかこまれた湖(みずうみ)は、水を湛えるうつほ(洞穴)であり、水を打つ、稲穂の風の刹那のように、うつほ(空っぽ)になって土地に捧げることで、訪れるすべての人が満ちる水のようにあらゆるかたちの表現者であることを思い出すことができるような祭りを目指します。ー原始感覚美術祭HPより

 

8月30日(金)、京都に迫りつつある台風の風に押されるように、車窓に流れる緑を抜けて長野県大町市「信濃大町」駅へ。

初日は「千年の森 自然学校」にて、この祭りの炎となる火起こしの儀から始まる。
この火はランプに移され、3日間大切に絶やさず燃え続ける。

森というか山の中の作品ツアーは雨で道がぬかるんでいてハードだった。
現地のスタッフや作家はそれでも裸足で歩いている人もいて、服もたるっとした布を纏い、男性は長髪を結んでいたり、女性はターバンに草花を差してたりして古代人みたいで良い。祭りだからなのか、普段からこういう生活をしているのかな?と思った。

初日はスマホ使えず、3日目のツアーの様子 安藤栄作さんの彫刻作品と踊り

山に生えている木を斧で彫刻する作品やインスタレーション、山の鼓動のようなサウンドアート、古代を思わせる壁画やライブペインティングなど、山を登ったり降りたりしながら魅せられる。作品の近くで何気なく歌や踊りやパフォーマンスが始まり、時折さけび声も響き、スリルと臨場感あふれるツアーだった。

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馨子(かおるこ)さんパフォーマンス

日が沈んだら、大きな炎を囲んだパフォーマンスが始まる。
暗闇の中で動物の鳴き声のような笛や太鼓の音が響き、揺らめく炎と四つん這いから立ちあがる踊りが重なる。

人間じゃなくても、動物でさえなくても、ただの生きものとして生きていても良いのかもしれない。これがひとつの原始感覚かもしれない。
まっくらな山道を降りながら、今日生まれた小さな火のことを思い出して、1日目の夜にさっそくそんな風に思った。

晩ごはんに熊をさばいたそうで、そのホルモンを食べるかと言われるが怖くて食べられなかった。

 

2日目、8月31日(土)は午前中にクッキーの制作を現地で行う。
初めて使わせてもらうオーブンで、しばらく眠っていたというので不安はあったがうまく焼けた。

「ことばを食べるかんじクッキー」はお菓子でもあるけど、焼きもの、ひいては文字の形の器であるというイメージで作っている。
器の中は空洞で、息を吹き込むと声が響く。

言葉の形になる前の生地

同じ時間、庭では鶏を絞める儀式が行われた。人は食べるために色んなことをする。沢山の労力と沢山の時間を使う。毎日を食べるために生きている。

2日目の宵祭・3日目の本祭の会場ー木崎湖畔にある「信濃公堂(信濃木崎夏季大学)」にて、飲食店の出店に混じって出展させてもらう。
こういうお祭りやイベントの時しか食べられない飲食が大好きで、ワクワク。今回はどの店も素材と味のレベルが高かった。

みつ玉やさんの信州名産「おやき」は優しくて懐かしい味 ”作りたいわたし 食べたいあなた” というキャッチコピー

NERUさんの餃子 ラベンダーと梅のソーダととうもろこし餃子 ハーブ餃子もいただいた

wakuさんのドーナツ&コーヒー これまでで一番のもちもちドーナツ 売切でおかわり不可…

カフェみずうみは普通の飲食店と様子が違うので、これっていったい何なんですか?と言われることが多い。
ここの配置(飲食店とステージの間の縁側)の通り、内と外の間、飲食とアートの間、日常と非日常の間、現実と空想の間、自分と他人の間、苦しさと楽しさの間…いつも間にいるから自分でも何なのかはっきり分からない。
今回は原始感覚を取り入れるため、人間と非人間の間というのも加わった。そういえば人間という言葉がそもそも間という言葉を含んでいる。人はある言葉と別の言葉の間にいるのに、その時その時で(暫定的に)ひとつの言葉を求める。「コーヒーが飲みたい。」
そうやって世界を認識して自分というものを確認するのだから、それでいい。そして変化は止まらないから都度、確認する。「私は今、ドーナツが食べたい。」

今回からのスタイルで出張版「ことばを食べるカフェみずうみ」を実施。
①最近気になっていることを考えながら何も書いていない本をパラパラとめくっていただく。
②記憶の地層を掘るように、手探りでページに埋もれた言葉の化石を探っていただく。
(どんな言葉を掘り当てるかはわからない。)
③最初に思っていたことや掘り出した言葉についてお話をしてみる。時間があればじっくりと。

このスタイルには占い的な要素があり、話し終えた後はすっきりしたという人が多かった。
お互いニュートラルな立場で、確認しながら対話をする。そうすると徐々に純粋な疑問や共感や好奇心ー自分の言葉が出てくる。
続けていると、目の前の人が水面に映る自分のように見えてくる。そうなると、なぜかとても落ち着くような心地の良い時間になる。そういう「みずうみ」でありたい。

言葉の形をした化石「ことばを食べるかんじクッキー」について、ふだんは常用漢字の形でクッキーを作っているけど、今回は原始感覚ということで半分、現在の文字の形になる前の古代文字・象形文字で制作した。

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この祭りのための「空」の象形文字クッキー

外側の半円は穴ぐら(空洞)の象形で、ベルとか口の中とか空気の流れや振動によって音が鳴りそうなイメージ。
表現とは自分の中にあるものを出すことではなく、空っぽのところに自分とは違うものが入ってきて、それを響かせるもの。「水のうつほ」とはそういうことかなと。
通りがかった子どもにあげたら、「未来の空だ!」と言った。過去の空なんだけど…

「無」の古代文字クッキー

舞の古代文字について調べると、舞(まい)の頭の無(ない)が雨乞いなど無いものを求めるときに舞っていた象形だそう。形は頭の無い人のよう。無になって舞う。

「水」の古代文字クッキー

現在の「水」の形になる前にあった、水の下に川が流れているような流れ星のようなクラゲのような形の文字。

ことばを食べるかんじクッキー「雨」

ことばを食べるかんじクッキー「命」

すぐそばで鶏を絞めている場面に遭遇して作った。命令の令に口がついていて(この二文字を並べるのは不思議)やはり命にはそれぞれ役割があるのかなと思ったり…
生きものには口(穴)がいくつかあって、形のあるものないものを出し入れして命を繋いでいる。

ことばを食べるかんじクッキー「炎」

表現は火や炎に例えられることが多い。炎という字は人という字が二つ重なって手を広げているようなイメージ。二人で何かをするというのもあるけど、天から受け取ったものをそのまま伝えるような、写し身のようにも見れる。同じ文字を重ねる。

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会場「信濃公堂」は木々の向こうに湖が見える外側と、会場をぐるりと巡る通路になっている縁側と、さまざまな公演が繰り広げられる内部が、つつ抜けになっている。会場内から縁側を抜けて見える緑が輝かしい。

この日は公演の他にも、映画鑑賞やトークイベントが繰り広げられた。
映画はパーマカルチャーをテーマにしたもので、太陽光で料理をするというシーンが印象的だった。毎年どんどん強くなる太陽の光とうまく共存できるか。すぐそばに自然が沢山あるわけではない街ではどのような暮らしをするのが良いだろうか。

トークイベントは縄文人の血をひくアイヌ人の話が中心で、発祥の北海道は島だからアイヌの言語は独特の構造を持つという。一定閉じた環境に発生する湖の固有生物のことを思った。
その言語は「歌」から来ていると言われ、アイヌでは即興歌の文化があり、どれも似たような旋律になるがその時その時の言葉を音に乗せるという。他の言語がすべて歌から来ているのかどうかはわからないけれど、「ことばを食べるカフェみずうみ」は自然と文化の融合を夢みていて、古代から現在まで変わり続けながらも普遍的な自然環境と、言葉の起源や「歌」にその鍵がありそうな気がしている。

長く平和が続いた縄文時代には現代が見習うべきものがあると言われる。目先の利益に囚われる一時的で短絡的な視野の世界から、雄大な自然と共に長い年月をみんなで生きる長期的な視野の世界へ戻れるか。
土地を分けて権力というものがでてきた弥生時代の整えられた土器と比べ、縄文土器にはプリミティブな炎の創造のエネルギーがある。

中村綾香さんの縄文土器の作品
記念館には豊かな土色で描き込まれた壁画や美術祭主催:杉原信幸さんの湖の底から拾った貝の舟の作品
会場と木崎湖を繋ぐ原始感覚への道、形が整う前の象形文字のよう


 

3日目(引き続く夏休み)8月32日(日)の午前中は、原始感覚美術祭の山車(だし)をみんなでひきながら、木崎湖の周りを一周する。この山車は小さくて生きもの感があって、傘のおばけみたいな愛らしさがある。

ザイ・クーニンさんの船の作品 先っぽはアートオークションで競り落とされた

途中、宙吊りの船の作品のそばで太鼓の演奏を聴いてから、みんなで湖に入る。
ほぼ裸で浮かんでいる人が「お母さんのおなかの中にいるみたい」と言った。
そう、湖の中は胎内のイメージがある。静かで温かくて守られている。何もしなくて、ここに居ていい。
(胎児のはじめに現れる五感の器官は耳だそう)
何か言葉を投げかけると、耳のかたちの波紋が響く。記憶の湖底に言葉のかたちをした化石が眠っている。

人びとを受け容れる湖
富松篤さんの木で作った鹿の作品 傍らにあい間あい間に振る舞われるおにぎり

山車が湖を巡って会場に戻ると、大地の鼓動のような太鼓が迎えてくれる。ピーヒャラという笛の音や威勢の良いかけ声も加わって、みんな踊り出した。

古代風巫女と軽やかなギターの掛け合いがニュー古代な不思議な雰囲気を醸し出す姫凛子さんの公演

そこから一日中、演奏や朗読や歌や踊りやパフォーンスなどの公演が続き、最後には獅子舞が会場を駆け巡り踊り狂って深夜、やっと宴に落ち着く。
太鼓や打楽器の音が地面を揺らし、身体をこえて魂に響くようで生きていることを実感させられた。
獅子舞はその大きな口で、音を食べてエネルギーに変えて暴れているように見えた。この獅子舞みたいに、音楽と共にあって音を食べるように生きていけたら良いなと思った。

食べものだけではなく、音を食べて、言葉を食べて、生きていく。そうやって生きるだけ生きたら、最後は土に食べてもらう。
この世界は見えるものも見えないものも常に少しずつ入れ替わっていて、いつの間にか自分と誰か何かが入れ替わっていたり、名前ーそれを指す「言葉」が変わっていたりする。

ここに来て、根源的でベーシックなものと未来的感覚の融合、プリミティブでアートな、自然(野生)と文化が融合した新しい生活を、以前より近くに感じることができた。
大地の鼓動を受け、人間であるより前にただの生きものとして、周りの自然や他の生きものを相互の写鏡とし、空っぽになって受けたものを響かせるような感覚を覚えた。この感覚をこれからの暮らしや活動に反映させていきたいと思う。

 

駅からまっすぐ一本道の先に湖

翌(夏休み最後の日)8月33日(月)、お世話になった皆さまと会場、木崎湖にご挨拶。
3日間の原始感覚生活で半分猿になったつもりの私は、帰りの無人駅のホームに階段を使わず自力でよじ登って、ぎりぎりで電車に飛び乗った。
優柔不断な今回の台風は、帰り道の途中で少し名残惜しそうにぐずっていた。またそのうち原始に還りにいきたい。
長野で原始に還って、京都に帰るとシティ感と宇宙感あふれる「惑星を食べる」展が始まる。まるで映画「猿の惑星」みたいだと思った。

惑星も食べる。これから人が月や火星に暮らしてもしかしたら地(のもの)を食べるという意味ではそうなのかもしれない。最後は土に食べられると言ったけど、人は土も食べる。これから、食べられる土について調べてみたい。


★「原始感覚美術祭」のいつくかの展示は11月4日(日)まで楽しめるみたいです!
https://www.primitive-sense.com/